人間の命の価値は平等か?―命の選択に医師はどう向き合うべきか?

”医師の誓い”で宣言されている命の無差別・平等性

「人間の命の価値は平等である」とはよく言われます。実際、世界医師会が採決した“医師の誓い”の中でも「私は、私の医師としての職責と患者との間に、年齢、疾病もしくは障害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、所属政治団体、人種、性的志向、社会的地位あるいはその他どのような要因でも、そのようなことに対する配慮が介在することを容認しない。」(ジュネーブ宣言)と、患者を差別して扱うことを禁じています。

ただ、この命の「無差別性」ないし「平等性」は現実に可能なのでしょうか。確かに、人種や民族、性別などが理由で軽んじられてよい命はないでしょう。しかし、臨床の現場においては、何らかの方法で命を選択しなければならない状況に陥ることもあるのではないでしょうか?

こうした現実の場面を加味しないで「命の価値は平等だ」とただひたすら訴えることは、むしろ非常に危ういことで、また誠実でもないと私は考えます。一つ思考実験を例に考えてみましょう。

「2つの爆弾」の思考実験―どちらのコードを選択するべきか?

あなたの目の前に青と赤、2本のコードのついた装置があるとします。装置の先からは左右2本の導火線が伸びており、それらの導火線の先端には時限装置付きの爆弾がそれぞれついています。その爆弾の目の前には、椅子に括り付けられ身動きの取れない人が1人ずついます。今あなたのいるところから2人は見えますが、助けに行くことはできません。

ここであなたは、青のコードを切れば、右側の爆弾の時限装置を止められるものの左側の爆弾は直ちに爆発してしまい、逆に赤のコードを切れば、左側の爆弾の時限装置を止められるものの右側の爆弾が直ちに爆発してしまうことを聞かされます。つまり、どちらかのコードを切れば、片方の人を助けられるが、もう片方の人を死なせてしまうということです。

今、刻々と時限装置の残り時間は減ってきています。このまま何もしなければ、爆弾の前にいる2人は両方とも爆死してしまいます。あなたにできることは、青か赤か、どちらかのコードを選択して切ることで片方の人を助けることだけです。それでは果たしてどちらのコードを切るべきでしょうか?あるいはどちらも切らないでいるべきでしょうか?

 

平等な命を「選択」するというジレンマ

ここで仮に、あなたが「人間の命は平等である」という信念をもっていたとしましょう。その場合、あなたは2本のコードを前にして、呆然と立ち尽くすことになります。「2人とも平等な命なのだ、片方を選択して片方を死なせることなどできない」とあなたは考えます。

「コードを切らなければ2人とも死ぬが、どちらかのコードを切れば1人は助かる」ということはわかっているものの、そのどちらかを決めることができません。両者の命が平等であるという信念と、どちらかの命を選択する(優先する)ということは相容れないため、ジレンマに陥ってしまったのです。

 

命を選択することから「回避」したいという誘惑と責任感

このような命の選択という重大なジレンマを前にすると、その難しい選択から「逃げたい」という気持ちが強くなります。あなたはもしかしたら、コインでも投げて運任せで決めたくなるかもしれません。もしくは、誰か代わりに選択してくれる人を探したくなるかもしれません。そうすれば、あなたが選択しなければならないという重荷からは解放されます。

このように選択から「回避」しようという気持ちは、ごく自然に生じるものだと考えられます。なぜならば、「人間の命は平等」という信念をあなたはもっていて、その信念を大切にしているからです。もしここで、あなたが命の「選択」をしてしまえば、その選択によって、自分の大切にしている信念を自ら破ることになってしまいます。

ただ、その湧き上がる「回避」の気持ちが現実のものとなる前に、自らの責任感が制止しようとします。「命がかかっている重大事をコインで決めてよいはずがないし、誰かにその選択を押し付ければ問題が解決するということなどあるはずがない。」そのように思い至り、あくまで自分自身で責任をもって選択しようと考え直します。

しかし、責任感をもって選択しようといくら考えても、結論は出ません。そのうちに回避したい誘惑はまた戻ってきて、今度は「回避」の誘惑と責任感の間で葛藤が生まれることとなります。

 

日常的に命の選択を迫られる医師

「人間の命が平等である」とすると、命の選択において上記のようなジレンマや葛藤は避けられないように思われます。しかし、このような命の選択は単に思考実験の中だけで起こることではありません。むしろ医師の仕事においては(診療科や働き方によって違いはあるものの)、日常的に命の選択をすることが迫られている状況にあります。

医師はいうまでもなく医療現場における責任者であり、限られた医療の物理的・人的資源を効率的に割り当て、できるだけ多くの患者さんに最大の効果を与えられるようにと診療に取り組んでいます。

現実的にはベッドも時間もお金も人も限られているため、一人一人の患者さんに対して常に100%の医療を提供することは非常に難しいといえます。そのため、時によっては患者さんに対して治療の優先度をつけ、優先度の高い患者さんにより多くの医療資源を集中的に投下することが必要になります。

 

医療必要度の観点だけでは割り切れない「選択」

このような医療の優先度づけは、特に救急現場では「トリアージ」と呼ばれ、もっぱら緊急性や重症度などの医療必要度の観点から黒(死亡)・赤(重症)・黄(中等症)・緑(軽症)の4色のタグ付けにより優先度を設定し、優先度の高い赤の人から順に集中的に治療を行なっていきます。

このトリアージも一種の命の「選択」といえますが、純粋に目の前の患者さんにおける「医療必要度」の観点だけによる選択であれば、まだ「人間の命は平等である」という原則に則っていると考えられます。

しかし、医療現場における患者さんの「選択」には、単純に重症かどうかといった医療必要度だけで割り切れることばかりではありません。以下に3つ例を挙げましょう。

第一に、医療において治療の判断を下すうえで、判断基準が多様化してきていることが挙げられます。かつては救命・延命をとにかく考えればよかったものが、現在は、生活の質(QOL = Quality of life)の向上や、自己決定の尊重といった配慮も必要になってきています。配慮すべき項目が増えた分、治療の優先度の選択も複雑化してきているといえます。

第二に、医療上の判断に経営上の判断が加わることが挙げられます。例えばDPC導入病院では検査を多く実施すると費用がかさむなど、診療上の判断によっては経営的に打撃となることがあります。こうした経営上の配慮を全て度外視することも可能ですが、病院の経営が傾けば結果的に医療の提供を継続できなくなることも考えられるため、適度にバランスをもって判断していくことも求められます。

第三に、医療必要度の高い患者さんを優先的に治療することが、社会的に最大多数の最大幸福を実現できるとは限らないということです。例えば、死刑を5日後に控えた受刑者が重症患者として搬送されてきて、その治療を優先するためにもともと予定されていた緊急性の低い手術が延期されたとしましょう。

ところが、その延期された間に、緊急性の低いとされていた患者さんの容体が急変し、一命は取りとめたものの後遺症が残る事態となってしまいます。その一方で、優先的に治療した受刑者の方は、5日後には死刑執行を迎え結局亡くなってしまいます。この場合、医療必要度による判断が、誰も幸福にならない結果を招いたといえるのではないでしょうか。

このように、医療必要度の観点だけでは割り切れない複雑な状況の中で、医師の方々は日常的に命の「選択」を行なっているといえます。

 

人間の命の平等性に対するリアリズム―『医師の一分』里見清一

この命の平等性の問題について、臨床医の立場から現実主義的な議論を展開しているのが、里見清一先生(『医師の一分』新潮新書, 2014年)です。里見先生について少しだけ紹介すると、「里見清一」という名前はペンネームで、その実は現在日赤医療センターの化学療法科で勤務されている國頭英夫先生です。

その著の中で里見先生は、別の先生の「消化器癌の術後間もない患者を無理して退院させ空けたベッドに、レスピレーターにつながった寝たきり老人が転院してくるのを見て、自分たちが何を目指しているのかを見失ってしまったかのような感覚だった」という体験と、「労災か自殺未遂か」「子どもかどうか」を救急受け入れの時の基準としていたかつての自身の経験を手がかりに、現実的には命に上下は存在すると断じます。

ただし、その次に命の上下の基準について論じているものの、候補として挙がったおカネ(一人一年延命にかかるコスト)と、本人の意思については、どちらも全面的には肯定できずに終わります。恐らく、納得できる答えを先生ご自身が今も模索されているのではないかと個人的には察しています。

しかし、里見先生が事例として挙げているものから想像すると、「将来性があるか」「社会を支える側か、それとも支えられる側か」「自業自得かどうか」ということを暗に基準にしているように読み取れます。この辺り、感情的に共感できる部分は多いのですが、基準とするにはなかなか難しいところです。

上記のような里見先生の議論は、正しいか正しくないかという批判を超えて、臨床に携わる者としての現実感と人間味が備わっていて、真に迫るものがあります。このような議論は、結論よりも過程とその態度のうちに、学ぶべきものが多いといえます。

 

人間の命の選択に医師はどう向き合うべきか?

人間の命の優先順位という難しいテーマについてここまで考えてきました。医師の方々は日常的にこのテーマに向き合い、何らかの決断を下していることと思います。このような判断は、時代と共に様々な要素を取り込んで複雑化してきていて、判断に伴う内外のプレッシャーも日に日に増してきています。

しかし、重要なことは、「今・この場で」難しい決断を迫られている臨床医の方々に対して、命の平等について教科書的に安穏と語っている論者がとやかく言う筋合いはないということです。

2本のコードの前に立とうとすらしない人ではなく、無理やり理由をつけてでも、とにかくどちらかのコードを切って前に進み続けるという態度が、今後の医師にとってますます重要になってくるのかもしれません。

 

人間の命の価値は平等か?―命の選択に医師はどう向き合うべきか?」への2件のフィードバック

  1. 命の平等ということですが、その議論の一方で種によって寿命の決まり方が異なっているという問題があると思います。進化の過程で寿命が遺伝的に決まるということは、命の価値を考えるときに生物・種のあり方をパラメータとして導入すべき時代になっていることを意味すると考えられます。人間だけの問題にするより種間での比較から人間の命の価値に関する考察を再構築する必要があると考えます。

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    1. コメントありがとうございます。

      命の平等は、生物種間も含めた問題にもなるというご指摘、その通りであると思います。

      生物種間の寿命の違いに関しては、例えば生涯での心拍の回数が実は象とネズミでほとんど変わらないといった、時間感覚の違いも加味されるものではないかと今のところは考えています。

      人間以外の生物種にも権利を認めるという考え方では、オーストラリアのピーター・シンガーが有名ですが、シンガーは生物の知性に基づいてその価値を考えていました。日本が捕鯨をやめるよう国際社会から言われる背景の一つにもなっています。

      また、絶滅危惧種を保護すべきという議論、増えすぎた種は駆除すべきという議論も人間以外の命の価値も含めて考える際に重要になると思われます。

      本稿では人間以外の命の価値については想定していませんが、今後いただいたコメントをヒントに改めて考えたいと思います。

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