人間の「品種改良」は許されるか?遺伝子技術によるエンハンスメントの問題点

人間の根源的な欲求は「全知全能」?

突然ですが、もしも一つだけ願い事がかなうとしたら、何と答えるでしょうか?私はかつてそう聞かれた際に「全知全能」と答えたことがあります。

「何でも叶えることができるようになる願い事なんて反則じゃないか」という反応が返ってきそうですが、実際にどんな願いでも一つだけ叶えることができるとして、「全知全能も答えてよい」としたら、誰もが同じように答えるのではないでしょうか?

たとえ私利私欲がなく、その一生を他の人々のために費やしたいという使命感に燃えているような人でもそうでしょう。なぜなら、全ての人を救うことのできる力が手に入れられるとしたら、どんな善人でもそれを望むだろうからです。

「万能人」の理想を追い求めた近現代史

つまり人間は、自覚しているかいないかはともかく、「全知全能」というものを追い求めるものだということがいえます。ルネサンス期というヒューマニズム(=人間主義)が開花した時代に「万能人」が人間の理想像とされたのは偶然ではないと思います。そのルネサンス期の理想から近代が起こり、人類が進歩してきたと考える事も可能でしょう。

人間は近現代を通じて、自らを「万能人」に近づけるべく、様々な技術の開発を進め、交通や通信手段など、さまざまな発明や道具を生み出してきました。500年前に生きていた人間が現代にやってきたら、まるで別の世界に来たかのように思うことでしょう。その一方で、そのような道具を使う人間自身の能力を高めるための教育も施されてきました。

 

人間自身の開発―医療技術を応用したエンハンスメント

しかし、人間の知能や身体能力には限界がありますし、そもそも感情によって揺り動かされて心の安定もままなりません。そこでそのような人間の限界を克服するために、人間自体に直接手を加えてその能力を上昇させる試みが行われるようになりました。いわば人間自身の開発です。

その開発は主に医療技術の応用によって行われ、治療などの医療行為と区別してエンハンスメント(enhancement)と呼ばれます。エンハンスメントにはドーピング、ホルモン投与、美容整形手術などさまざまなものが含まれます。ドーピングなどは、たまにアスリートが使用しているのが発覚して問題になりますが、身体能力の向上だけでなく、知能(記憶力、集中力など)を向上するドラッグも存在します(認知症の薬を健常者に用いる場合もこれに当たります)。

 

遺伝子技術によるエンハンスメントとその問題点

その中でも最近新しく出てきているものが遺伝子技術によるエンハンスメントです。この技術に関して、人間が自らの可能性を広げる機会だと考えている人も多いですが、この種のエンハンスメントは、今までにない仕方で人間を改造するものでもあるので、医学的・倫理的・社会的な問題点も多く提起されています。以下にその問題点を5つご紹介します。

 

①リスク便益比の観点から見合うのか?

まず、医学において判断の基準の一つとなるリスク便益比の観点です。リスク便益比とは、その技術がもたらす便益と、それに伴うリスクとの対比のことです。この場合は遺伝子技術によるエンハンスメントによって得られる便益と、それに伴うリスクを比較して有効性を考えていきます。

「エンハンスメントは治療目的と比べてリスクが著しく高いので、その中でも比較的リスクの少ない病気の予防目的のみを認め、個人的願望による性質強化は認めるべきでない」と論じている人もいます。たしかに正常な機能を個人的願望によってさらに高めようとするのは、異常な機能を正常にするのに比べて便益は評価しづらい面もあり、相対的にリスクが高くなると考えられます。

しかし、リスクに関しては、技術や知見が発達することによって減少していくことになるため、将来的には、リスク便益比から考えて見合う日が来るかもしれません。

 

②将来世代へ及ぼしうる影響はないのか?

次に、遺伝子技術による介入を受けた当人の子や孫などの将来の世代に及ぼしうる影響についての観点です。つまり、遺伝子技術によるエンハンスメントの副次的効果が、エンハンスメントを受けた当人に見られなくとも、その後世代を超えて影響する可能性があるのではないかという懸念です。

仮にその影響があった場合、気づかれずに広まって多くの人へ影響を及ぼしうるということだけでなく、一見個人の自由でできるかと思われるエンハンスメントが実は将来の多くの人々を巻き込むことにもなり、何の罪もない将来世代の人達が前の世代の“過ち”によって苦しむことは世代間倫理の問題にも発展します。

これに関して、厚生労働省が出している「遺伝子治療臨床研究に関する指針(第一章第七)」では、生殖細胞へ影響を与えるような遺伝子研究を禁止し、研究の対象を体細胞に限定しています。体細胞だけの改変であれば、確かに将来世代への影響もなく済みそうです。

しかし、将来世代への影響に関する危惧は、それが未知であることによって危惧している側面が大きいため、今後この指針が変わらないとも限りません。遺伝子組み換え食品のように、影響について十分検討することができて安全性が保証されたのであれば、ある程度生殖細胞に対しても介入が認められる可能性は考えられます。

 

③エンハンスメントに起因する社会的差別の可能性

エンハンスメントを受けた人と受けていない人の間で能力が変わるとすれば、それによる差別が起こる可能性もあるのではという観点です。一つには、介入を受けていない人々への差別が考えられます。たとえば、エンハンスメントによって知能が向上した人々が、介入を受けていない能力を劣る人々を差別するとしたらいかがでしょうか。このような差別は、優秀な人間のみを良いとする優生学的思想ともつながるものです。

もう一つは、介入を受けた人々への差別が考えられます。たとえば、同じ結果を出した人でも、エンハンスメントを受けた人が出した結果は、本物ではないと見られたり、エンハンスメントを受けた人を人間として同等の存在として扱わなかったりするなどの差別が考えられます

しかし、これらの差別の問題は確かにありうるとしても、エンハンスメントを受ける人と受けない人との間の違いが差別になる原因は、エンハンスメントそのものの中にあるのではなく、むしろそれらの違いを差別に結びつけようとする考え方にあるように思われます。

だとすると、この問題はエンハンスメントによる介入を行う前に論じるよりは、介入後に差別が実際に起こったときにその差別を克服するために論じるべき問題でしょう。

 

④エンハンスメントは社会の中の格差を広げるのか?

差別の問題と関連して、格差の問題もあります。エンハンスメントは社会に平等をもたらすのか、それとも格差を広げるものになるのかという問題です。

もしエンハンスメントを市場原理にゆだねるならば、経済的に力のある人ばかりがそれを享受し、貧しい人々は蚊帳の外に置かれることで、ますます格差を広げることになると考えられます。だからといってエンハンスメントを公共サービスとして貧しい人々に提供するかというと、エンハンスメントは必要最低限ではないため、それも難しいでしょう。

つまり、この点に関しては、エンハンスメントは確かに社会の中の格差を広げることになる、と考えられます。

 

⑤偶然性の消失―どんな子どもが生まれるかを親が決めて良いのか?

子どもは親を選べないし、親も子どもも選べない―この偶然性は社会が成立する上での基盤ではないか、という観点です。お互いに選べず、それでいて切り離せないという縁が親子関係で、身近に思い通りにならないことがあるからこそ、それと向き合って生きていくことで親としても子としても成長できるというのは少なくとも一面の真理をついた考えと思います。

そのため、自分の子を自分にとって理想的になるようにデザインすることが遺伝子技術によるエンハンスメントによって可能になるとしたら、それはこの偶然性を崩し、それは結果として人間としての本来の成長の機会を妨げることになりうるのかもしれません。エンハンスメントを行なったために、人間として成長できないというのは何とも逆説的な話ですね。

 

「万能人」への歩みは何をもたらすのか?

遺伝子技術によるエンハンスメントは以上に挙げたような問題を多く抱えていますが、その根幹にあるのは、「万能人」になろうとする人間の欲求そのものです。

人間は「全知全能」を求め、自らの能力を向上させようとしますが、それは何かしらの否定の上に立っています。その否定の対象が、本来残すべき人間性そのものであったとき、その否定によって生まれるのは一体何でしょうか?今後考えなければならないテーマです。

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