茶道における幸福論とは?―【読書録】『日本人の心、伝えます』千玄室

「幸福とは何か?」この問いを考えていくには、一つの視点だけでは足りないと思われます。そのため本稿では読書録という形式で、茶道の視点から見た幸福論について考えていきます。読書録としての性格のため、本論から脱線するなど、やや考察としてまとまりに欠けているところもございますが、ご容赦いただけますと幸いです。

今回挙げさせていただいた『日本人の心、伝えます』(幻冬舎)は、茶道裏千家15代家元の千玄室氏による日本文化論です。論というよりは、90年以上の生涯に渡って茶道を通じて世界と向き合ってきた千玄室氏による、一種の説話集というべきかもしれません。平易な文章で随所に茶道のエッセンスが紹介されており、茶道を知らない人にも読みやすい本と思います。

茶の湯

茶道と書いて【ちゃどう】と読む?

本書を読んでいてまず目につくのは、「茶道」のふりがなに【ちゃどう】があてられていることです。私はこれまで「茶道」は【さどう】と読んでいましたが、実際は流派によって異なり、千玄室氏の裏千家では【ちゃどう】と読むのが正しいのだそうです。また、下記引用にあるように古くは【ちゃどう】の読みが一般的だったようです。

Q. 「茶道」にはサドーとチャドーの二つの読み方がありますが、どちらが正しいのでしょうか。

A. 放送では、現在どちらで読んでもいいことになっています。

ただし、古くはチャドー、現在ではサドーが一般的だと言われています。『日本国語大辞典』によると、江戸時代まではサドーというのはまれで、茶頭(サドー)との混合を避けるためにチャドーというのが普通だったようです。今でも、茶釜、茶器、茶室、茶道具、茶の湯、茶会などの茶道関係のことばは、すべてチャです。したがって、「茶道」をサドーと読むのはむしろ例外的です。

 ――NHK放送文化研究所より引用『「茶道」の読み|最近気になる放送用語

 

和敬清寂―茶道において重んじられる精神性とは?

「茶道では何が重んじられ、その根底にはどのような考え方があるのか?」という問いは、茶道を通じて人間の幸福について考える上で最も重要な問いです。これについて千玄室氏は、「和敬清寂」が茶道の精神の本質であると説明しています。

この理念の説明自体は本書では少ししか触れられていませんが、本書を通じた千玄室氏の語り全体がつまるところ「和敬清寂」の何たるかを示しているとも言えます。下記にて、その一端を紹介させていただきます。

 

和(peace and harmony)―相手を思いやり調和と平和を重んじる心

 茶道を大成させた千利休が生きたのは戦国時代でした。殺伐とした争いの世において、利休は一碗のお茶を通じて「和」の心を世の中に広めようとしたのです。

たとえば、茶室への入り口である躙口(にじりぐち)を小さくしたのも利休の考案ですが、そうすることで刀を外し、頭を下げて入る必要が出てきます。その一連の所作を介して、各人は身分や立場の違いを脱し、「和」の心でもって交流する場ができると利休は考えたのです。

このような「和」の心を大切にする精神が、現在の茶道にも連綿と受け継がれているといえます。

敬(respect)―他人を敬い、今この瞬間を一期一会として大切にする心

 茶道では、お茶を点てもてなす亭主と、そのもてなしを受ける客人が互いを尊敬しあい、一体となって茶席を創り上げるという考えがあります。亭主は客人を喜ばせるためにあらゆる努力と工夫を惜しまず、精一杯のもてなしを行ない、客人はその亭主の心配りに本心から感謝します。

その背景には、人間はいつ死ぬかわからないのだから、「この会が終わったら死んでもよい」と思えるようにその瞬間を大切にしようとする一期一会の考えがあります。「この会は一生に一度しかない」、「これが最後になるかもしれない」、そのような思いから様々な「敬」の心が生じます。

その瞬間を共にしている相手への敬意、茶道具の職人や茶の栽培農家など、その茶会の場を影から支えてくれている無数の人に対する敬意、また、その瞬間まで自分を生かしてくれた家族・周囲・その他見えない力に対する敬意。

このような敬意を抱きながらその刹那を精一杯生きるという考え方が、茶道の精神性の根底にあります。

清(purity)―外見だけでなく、心の汚れに気づき清めようとする心

 茶道のみならず日本人の美意識として広く知られている「わび・さび」ですが、「わび」は「正直に慎み深く、おごらぬさま」(武野紹鷗)のことです。豪華絢爛に彩られた外見の美しさではなく、慢心しない素直な心のうちに美しさを見出すのが「わび」の感性です。そのため、自分の不足を認め素直な心を表に出す行為を「わびる」と表現するのです。

 茶道ではこの「わび」の心を大切にします。外見よりも心の中の美しさが茶道では重んじられます。その内面の美しさを磨くため、自分自身の心の汚れや曇りに気づき、それを自ら清めようとする心、それが「清」の心です。

寂(tranquility)―落ち着いていて、何物にも動じない心

 「寂」の漢字を見るとまず思い浮かぶイメージは「寂しさ」かもしれませんが、ここでは「寂然不動」の「寂」であり、「何が起こっても動じない落ち着いた心」を意味します。常に落ち着いた心でいるためには、何事にも用意して前向きでいる姿勢が重要です。

そのためには刻限より前もって準備し時間に余裕をもっておくとともに、不測の事態にも用意しておく必要があります。利休は「降らずとも雨の用意」と言って、どんな事態にも準備と心構えをしておくことの大切さを説いています。このような用意を常日頃欠かさず、心にゆとりをもつことで、何事にも動じない「寂」の心を養うことができます。

 

一碗のお茶が何をもたらすのか?

上記のように、和敬清寂の理念が茶道の根本に横たわる精神性ですが、それによって得られるものとは何でしょうか?

利休は、茶道とは何かと聞かれた際に「渇きを医するに止まる」と答えています。「茶道は渇きを癒すだけのものだ」という意味ですが、この渇きとは、喉の渇きだけでなく、心の渇きのことも含んでいます。

普段、特に意識せずに生活を送っていると、人は目の前のことに忙殺されてしまいがちです。限られた時間の中で効率が求められ、気づかないうちに余裕がなくなってしまっていることもしばしばです。そのようなとき、人の心は渇いています。

その心の渇きを癒すのが茶の湯です。喉の渇きを癒すだけであれば自動販売機があれば足りますが、心の渇きはそれでは癒せません。相手のためを思い、一つ一つの所作に思いを込め、ここまでするのかというほどの手間暇をかけて点てられたお茶だからこそ、人の心の渇きを癒すことができます。

もしあなたが現在の生活に余裕がもてないと感じているのであれば、多少無理してでも、一碗のお茶をいただく時間を設けてみるのも良いかもしれません。

参考資料:『日本人の心、伝えます』千玄室 (幻冬舎、2016年)

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