医師は「確率」とどう向き合うべきか?―医療における「確率」の功罪

how_should_a_doctor_deal_with_probability_as_a_tool?

医療の現場において、「確率」の概念は広く浸透しています。薬や治療法の比較検討においても、患者さんへの説明でも、「確率」は頻繁に用いられます。もし、医療において「確率」というものがなくなったとしたら、EBM(根拠に基づいた医療)やインフォームドコンセントの実践は不可能になるでしょう。

しかし、その何気なく使っている「確率」とは何でしょうか?

サイコロを振って3が出る確率は1/6、つまり6回に1回ですが、実際に「サイコロを6回振った場合に3が1回出る」のかというと、そうとも限りません(実際にそうなる確率は2/5です)。「ずっと繰り返せば6回に1回になる」と言うことは可能ですが、その意味するところは何でしょうか?

こうしてみると「確率」について私たちは、よく理解しないで使ってしまっているのかもしれません。そこで、以下に確率についての考察を加えた上で、「医師が本来どのように確率という道具と向き合うべきか」について考えていきたいと思います。

 

「この人は△△の確率が○○%」という説明は正しいのか?―変動する確率

 

医療における「確率」の使用法として、「この患者さんは放っておくと3ヶ月後にAという状態になる危険性が60%」「この人にはBという治療法を取れば治る確率が70%」という場面が考えられます。しかし、このような特定の人に対して「この人は△△の確率が○○%」という説明の仕方は正しいのでしょうか?

先ほどのサイコロ振りの例から考えてみましょう。あなたが特定のサイコロをもっているとします。何もそのサイコロについて知らない場合、そのサイコロを振って3が出る確率は1/6だと予想するでしょう。

しかし、そのサイコロをよく見たら1と6の面の面積が他より大きかったとした場合、1と6が出る可能性が高いと考えられるため、3が出る確率は1/6より下がると考えます。また、あなたがサイコロ振りの達人で、特定の数の目を正確に出せるとすれば、希望する3が出る確率は格段に上がります。

このように、同じ対象でも与えられた情報によって確率は変わってきます。確率が変動する理由としては、そもそも「確率」というものが対象の側に存在しているのではなく、認識する人の側に属しているということが挙げられます。確率は認識する人の側にあるため、「どれくらい知っているか?」という認識の量によって確率も変動するということは当然といえます。

そのため、「この人は△△の確率が○○%」という説明は、特定の対象に対して、まるで客観的な数値のように「確率」を当てはめてしまっているため、正確ではないことになります。「この患者さんから現状得られた情報を総合すると、Aという病気だと考えられ、一般にAという病気の場合、Bという治療をすれば治る確率が70%というデータがある」と言うのは正しいですが、それをもって「この患者さんはBという治療で治る確率が70%」だとは言えません。

あくまで「現時点の認識の範囲では」というカッコつきでなければ、「確率」を特定の誰かに当てはめることはできないのです。

 

医療の神様に「確率」は必要か?―人間の無知を補うための「確率」の概念

 

「確率」は対象(患者さん)の側ではなく、対象を認識する人(医師)の側に属するものだとすれば、認識において完全な存在を仮定すると「確率」の概念はどうなるのでしょうか。医療において、患者さんの問題を余すことなく見通し、その判断を見誤ることが全くなく、将来を正確に見通せる医療の神様のようなものがいたと仮定して考えてみます。

医療の神様は、認識において過つことがないため、患者さんの健康上の問題を把握する上で、「確率」の概念を必要としません。それどころか、患者さんの問題に対して病名を当てはめる必要性も感じないでしょう。なぜなら、過去の類似の事例に即してパターン的な対処法を考える必要がなく、患者さんに即して適切な対応をとることができるからです。

また、その対処法を取った場合、取らなかった場合の予後を考える上でも、医療の神様は「確率」の概念を必要としません。対処法を取ればこうなる、取らないで放っておいた場合はこうなる、という先々のことが手に取るようにわかり、そこに別の可能性が差し挟む余地がないためです。

こうして考えてみると、認識において完全な医療の神様というものを仮定した場合、「確率」というものは全く必要ないとわかります。逆にいえば、「確率」が必要になるのは、認識する力が不完全だからだ、ともいえます。結局、「確率」というのは、認識力に欠け先々を見通せない人間が、少しでもその無知を補うため考え出した”道具”だということでしょう。

 

医療における「確率」の功罪

 

「確率」が無知を補うため考え出された道具だとしても、現在非常に多く用いられ、頼りにされている便利な道具であることは事実です。しかし、その道具としての「使いやすさ(=有用性)」はどこから来ているのでしょうか?また、その「使いやすい」という事実の裏に隠されている問題についても考えたいと思います。

①確率のもつ説得力

  「確率」は非常に説得力のある道具です。治療法の選択において、Aは70%の人に効果があったが、Bは80%の人に効果があった、といえば、Bを選ぶ方が合理的だと大抵の人は判断して実際にBを選ぶでしょう。しかし、この「良くなる確率が高い方を選ぶ」という行為の裏には、合理性というよりも「確率」というものに対する信頼、「確率」を一種の権威とみなすような考え方があるように思われます。

②確率の説明によるリスクヘッジ

  たとえば「手術の成功率は80%」という説明が意味することの内には、「20%は成功しない可能性があります。成功することは保証できませんので上手くいかなくても責任は負いかねます」ということも含みます。つまり、「確率」による説明は、上手くいかないときのためのリスクヘッジという面もあります。これはこれで便利ではありますが、その側面ばかり強調すると、「確率」が単なる責任回避の道具になり替わる恐れもあります。

③確率の考え方によって軽視されてしまうもの

  確率は過去の似たような事例をもとに、現在起こっていることを説明する方法とも言えます。そのため、これまでの事例に当てはめようとするあまり、過去と「似ている側面」ばかりが強調され、「似ていない側面」があっても、軽視され見逃されてしまうということが考えられます。

 

医師は「確率」という”道具”をどう扱うべきか?

 

以上のような功罪を考えても、やはり医師にとって「確率」は必要不可欠な”道具”であることには変わりありません。それでは、医師が今後「確率」という”道具”と上手く付き合っていくためにはどうするのが良いでしょうか?

一つの指針として考えられるのは、「確率という考え方で見逃されている点に常に注意する」、ということです。確率という考え方は、先に挙げたように過去と「似ている側面」ばかりを見るため、「似ていない側面」が見逃される危険があります。そこで、他の事例とは「似ていない側面」をあえて見ることで、その見逃しをなくすことが挙げられます。

もちろん、それには注意深い観察が必要です。シャーロック・ホームズのモデルになったといわれるジョセフ・ベル博士は、エディンバラ王立病院でコナン・ドイルに「患者を一目見てどのような職業か当てられるように」教えたという話があります。そこまでになることはなかなか難しいですが、それほど観察が重要ということでしょう。

 

以上、普段医師が何気なく使っている「確率」ですが、それにも正負の側面があるということを時折思い出し、より適切な”道具”としての使い方を見直す上で、本稿がその一助となれば幸いです。

広告

医師は「確率」とどう向き合うべきか?―医療における「確率」の功罪」への1件のフィードバック

  1. 本稿では基本的に、「確率は人間が世界を認識・解釈するために作り出した道具である」という考えのもとに論を進めています。ただ、確率は認識の問題なのか、存在の問題なのか、という問いは根深い問題でもあります。
     量子力学では、確率的事象を実在論的に考えます。つまり、Aの起こる確率が50%で、Aでない確率が50%とする場合、量子力学では、Aである状態とAでない状態が重なり合って存在している、というように解釈します。この量子力学の考え方に対する問題提起としては、「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験が有名です(シュレーディンガーの猫について)。

    いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中