全ては脳が決めているのか?―脳科学の進展が責任と自由意志の概念に与える影響

選択の自由と自己責任の原則が崩れる時―精神鑑定と責任能力

「自分のした行為は自分の自由意志によって決めたことであり、その責任は自分にある」というのは、社会が成り立つ上で、また人間が生きていく上で基本的な認識であるように思われます。選択の自由が保障されているからこそ、その選択の結果に対しても選んだ当人が責任を負う、それが社会の大原則です。その原則がなければ、社会は責任のなすりつけあいだらけになってしまうでしょう。

しかし、その責任の原則が崩れることがしばしば起こります。例えば、不法行為を行った人が精神疾患を抱えていた場合に、精神鑑定の結果責任能力がないと判断され、減刑もしくは無罪になることがあります。法に触れる行為を行なった精神障害のある人は、触法精神障害者と呼ばれ、判決後は医療観察法により指定医療機関へ送られますが、重い刑罰を科せられることはありません(ちなみに2016年1月1日現在、全国で指定医療機関は31病院、808床あります※厚生労働省HP参照)。

このように精神鑑定の結果として責任能力がないと判断された場合、「責任は当人にはない」ということが公的に認められたということになります(正確には責任を「問えない」ということかもしれませんが、被害者からすれば、「問えない」も「ない」も同じことでしょう)。

責任の有無の基準は何か?

では当人に責任がないとすれば、責任は誰にあるのでしょうか?保護者や後見人を指差すことは可能ですが、例えば殺人の罪をそのまま保護者や後見人に背負わせることなど到底できません。そこで、結局のところ「精神疾患のせい」だとして片付けられ、病院に送られることになります。被害者やその家族は納得しがたいですが、疾患によって正常な判断ができない人に罪を償わせるのも酷だろうということです。

しかし、「正常な判断」とは何でしょうか?正しい事実認識と良識をもった判断のことでしょうか?だとすれば、正常な判断ができないなら犯罪の責任はなく、正常な判断ができれば責任を負うというのは、何か変な感じがします。そもそも正常な判断ができる人は犯罪を行なうはずがないからです。

それでは、先ほどの説明を改めて、「正常な判断を妨げる何らかの強制力が働いていた人には、犯罪の責任はない」としてみましょう。その説明をこの事例に当てはめると、「精神疾患は正常な判断を妨げる強制力として働き、それによって犯罪行為を防ぐことが当人にはできなかった。そのために、行為を行なった精神障害者には責任はなく、精神疾患が悪い」ということになります。

 

ホルモン状態が悪い?脳が悪い?脳科学の発展によって自己責任は狭まるのか?

この論理は、一見すると筋が通っているようにも見えますが、同じ論理を適用すると以下のようなこともいえることになります。

過剰に分泌されたAホルモンは正常な判断を妨げる強制力として働き、それによって犯罪行為を防ぐことは当人にはできなかった。

脳の状態Aは、正常な判断を妨げる強制力として働き、それによって犯罪行為を防ぐことは当人にはできなかった。

これは精神疾患だけでなく、特定のホルモン状態や脳の物理的な状態が強制力となって犯罪行為を招いた場合にも、当人に責任がないと判断される可能性があることを示しています。この場合は、「ホルモン状態が悪い」「脳が悪い」ということになるでしょう。

もちろんこの論理には、「脳内のホルモンや物理的な状態が人間の行動にどのような影響を与えるか」という、脳科学の知識が前提となります。そのため、脳科学の知見が集積され、学問が発展するにつれて、このような論理が現実味を増してくることになります。それは同時に、脳科学の進展とともに「私の責任」といえる範囲が狭まるということを意味します。

 

全ては自分ではなく脳が決めている?神経科学的決定論と自由意志

さらに、「脳が悪い」という論理を極端に推し進めれば、「全ては自分ではなく脳が決めている」という考えに至ります。

人間の脳は複雑にプログラムされた一種のコンピュータのようなもので、その人が何を考えどう行動するかはあらかじめ備えられたプログラムとインプットの状態、すなわち脳の構造と状態によって決められている――この考え方は「神経科学的決定論」と呼ばれます。

脳科学と倫理と法』の第五章「21世紀の自由意思」でそのことがテーマとして扱われており、その中で実際に「人間が意識するより前に脳の活動が行われている」ことを論じています。これが正しいとすれば、脳の活動が「何をどう考えるか」を決めている、ということの証拠となります。こうなると、人間の自由意志はどうなるのでしょうか?

 

脳科学は責任と自由意志の概念にどのような影響を与えるか?

先に挙げた本の中では、脳が一種の自動機械であるからといって、責任や自由意志の概念に大した影響は及ぼさないだろうと結論づけられています。その根拠としては、脳が自動機械だと論ずるのは脳神経科学の文脈であって、責任や自由意志を論じる社会的文脈とは文脈が異なる話だから、というのが挙げられています。

しかし、文脈が異なっているから影響がないとは言えないと私は考えています。かつて、コペルニクスの地動説は、教会の権威を揺るがしましたし、ダーウィンの進化論はキリスト教の天地創造説の権威を失墜させました。脳科学の進展がそれと同様の影響を社会に及ぼさないという保証はどこにもないはずです。

 

「誰の責任か?」という考え方自体がなくなっていく?

その上で、将来的な方向性の一つとして考えられるのは、「責任や自由といったややこしい概念をなるべく使わず、別の考え方をもとに判断していこう」というものです。たとえば、最大多数の最大幸福をモットーとする功利主義の考え方です。これは、「悪いのは誰だ?」と過去を振り返る責任論と対照的に、「どうすれば最も良い結果をもたらせるか?」という、将来での最善の結果を求める思想です。

この考えに沿うと、たとえば不法行為を行なった精神障害者の場合、「その人の責任能力があるかどうか」よりも、「再犯の可能性や治療の可能性を考慮して、どのような判決を下すのが社会全体にとって良い結果をもたらすか」という観点からの判断が優先されます。

思えば、事件や事故は本来、様々な要因が絡み合って初めて成立するため、特定の誰かに責任を押し付ける考え方にはそもそも問題があったとも考えられます。やや楽観的な見方ですが、未来志向でより良い結果を求めていく姿勢が今後より重視されるかもしれませんね。

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